有限会社 エステート・リード

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生き生きとした人生を送るために

日時: 2015年12月24日

平 美穂

師走に入り、世間では年末恒例の「今年を表す漢字」や「今年を代表する出来事」などのニュースで賑わっています。


私もこの一年を振り返ってみると、職場で毎朝行われる朝礼、毎月行われる勉強会や、弊社のホームページでアップしていただいている社員のブログなどを通じて、沢山の素晴らしい言葉や文章に出合わせていただいたなと思いました。

自分なりに感じることだけでなく、皆さんの意見などを聞くことによって、物事は自分の見方だけでなく、人によって様々な見方や捉え方があるということを知り、自分にはない感性や考えを学ばせていただきました。


鈴木秀子氏 (国際コミュニオン学会名誉会長)の書かれた書籍に人の見方は様々で、それを知った上で自分の主張することを伝える、というものがあったことを思い出し

もう一度読み返してみました。


それは鈴木氏が芥川龍之介の短編小説「沼地」を読まれて感銘を受けられたことが書かれたもので「私たちが明るくいきいきとした人生を送ろうと思ったら、先入観なしに相手を受け入れ、自分が正しいと思ったことをはっきり伝える勇気と寛容さが必要です。」という言葉がありました。


最初にこの言葉を見たときは、自分の思ったことをはっきりと伝えるために、相手を受け入れるというのは、相反するように感じたのですが、読みすすめると、相手を受け入れることと、自分の意見を主張することは別のことで相手を尊重することが大事なのだと思ったからです。


その小説の内容はある無名の人の作品で「沼地」と題する絵を巡り、主人公の「私」と美術記者の様子を描写したもので、この絵に魅せられている「私」の前に、新聞の美術記者が現れ、つまらないものに感心すると言って「私」を見下すの場面があります。

「私」はこの画は傑作だと主張します。すると新聞記者は「私」の見る目のなさをあざけるように大声で笑いました。

それでも「私」はその部屋の片隅に置かれた誰も足をとめることのないようなひっそりとした絵の中に情熱と作者の生き様を感じ取り、「傑作です」と、「私」は記者の顔をまともに見つめながら、昂然として繰り返したのです。”


鈴木氏はこの短編を読んだ感想について次のように書かれています。


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この短編は、文壇の中で、立場を異にするゆえに、理解しようとしない人々に対しての、芥川龍之介の「我が道をゆく」という宣言とも読むことができます。

しかし、そうした背景を抜きにして、この作品にじかにぶつかる時、この『沼地』の中に象徴されていることが、私たちの毎日の生活とも密に繋がっているのを感じるのです。

私たちは、画や本や風景や人や、その他あらゆる芸術作品に、毎日対面しています。

例えば、一冊の本を取り上げる時も、多くの場面、人から題名とか内容について聞き、先に、ある程度の興味を持っています。

よいとか悪いとかの判断を往々にして、他の人の権威ある意見に頼りがちです。

自分が感じ取るものだけを頼りにすることは、不安なのです。

ましてや情報の溢れている現在では、いろいろなことにまず予備知識を持ち、それに照応しながら、価値の判断を下そうとします。

社会生活をしていく上で、これはもちろん必要なことです。

しかし、何か物事にぶつかった時、私たちは頭や心を空っぽにして、そのもののこちらへ語り掛けてくる無言の言葉に耳を傾けることが大切ではないでしょうか。

そして、相手のものから受ける感じを心で味わってみる必要がないでしょうか。

他人や、偉い人が何といってもいいでしょう。私に相手の人なり物は、こう語り掛けている。

そして私はそれをこう理解するのだという自信が尊いのだと思います。

「心の瑞々しさ」はそうした無心の状態からものごとの中へ飛び込んでみることによって、保ち育てられるのではないでしょうか。

「そのものが語り掛ける無言の言葉に耳を傾ける」ことが大事です。

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これを読んで、私は普段、職場でお客様や同僚、部下に真摯に向き合い、周りや相手にどう思き合っていくか、私はこの目的に向かってこのような考えを持っていますということを最優先にして伝えていかないといけないのに、相手がどう思うかとか、自分を守る事、逃げることをしてしまっていて、飲み込んでしまった言葉があると思いました。

それは人だけでなくものごと全て同じでつながっているのだと思いました。

さらに文章は次のように続きます。

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『沼地』の中で「私」が、あくまで自分が感じ取ったことに忠実であり、世評がどでうであれ、自分の確信をはっきり言い切っている態度には見事なものがあります。

「私」は世評を代表する美術記者の自信溢れる意見に少しも動かされてはいません。

「私」は狂人の描いた画を深く理解し、無名の芸術家の苦悩と、人間としての叫びを感じ取っているからです。

一人の人間を許容し、大きな言葉で言えば、運命の共存を感じ取っている時、人は世間の評価には屈しません。

一人の人間の尊さが身にしみているからです。

「私」はこの世で報われることのなかった画家をありありと感じているのです。

そして、生命まで犠牲にして描いた一枚の小さな画から、彼の魂に触れているのです。

だからこそ、世間そのものである新聞記者のこの画を無視した不遜な態度に、正面から「傑作です」と記者の顔をまともに見つめて、昂然と繰り返すのです。

『沼地』を読むと、生きてゆくことは、何と勇気のいることかと考えさせられます。

他の人の立場をあるがままに受け入れることに、まず大きな勇気と寛い心が必要です。

そして多くの人のそれぞれの立場に理解を持ち、先入観なしにその立場を認めることも決して狭心の心ではできません。

ましてや世間の風当たりに逆らって自分が正しいと思うことを、独善的でなく、穏やかに述べるのは、平静な心と強い勇気が要求されます。

苦しい一生を送りながら、聖者と讃えられる人々の記録を見ると、何と多くの祈りが「勇気と寛大な心を与えてください」という叫びに満ちていることでしょうか。

世界中のどの人にとっても、いきいきと生き抜くには、真の勇気と寛い心が土台として必要なのです。


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私はこの文章を読んで日々の生活の中で、自分の思いや考えを堂々と主張できるくらい、真剣に人や物事に関わっているかと思うと、いかに多くのことを先入観や既成の価値観で決めつけてしまっているかということに気づき、一つのものの見方しかできず、判断を感情に任せて下してしまっていたと反省しました。


職場でも常に「相手の立場にたって行動しましょう」と部下に指導している私が先に書いたように、自分の感情や思い込みで言いにくい言葉を飲み込んでしまうことがあると、周りに伝わる事はないと思いました。

まず、自分の主張したいことをしっかりとした根拠をもって、相手に真剣に伝えるために普段から自分の仕事や周りの方に真剣に向き合って、勇気と平静な心を鍛えていき相手の立場に理解をもって、先入観を持たずにそれぞれの立場を受け止める謙虚さを持ちたいと思います。


弊社では常日頃から、社員が学ばせて頂ける環境を整えてくださっており、それぞれのやる気次第で職歴、年齢に関係なく人間力を向上しようと社員全員で切磋琢磨しています。

人間力を向上させるということは豊かで充実した人生を送れる、と職場でも教えていただいています。

これからも皆で明るく生き生きとした人生を送れるように努力していきます。