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心構え

日時: 2016年01月19日

毎床 優子

朝礼で、毎日活用させて頂いている『職場の教養』での教えで、今日の教えを改めて考えてみました。

内容は、西郷隆盛に「その才器、識見、到底自分が及ぶものではない」と言わしめた人物、橋本佐内という幕末の志士が、著書『啓発録』の中で、己の心身を磨き高めるための5つの心構えが書かれていました。

①「稚心を去れ」…甘えた心を捨てる。

②「気を振え」… 怠け心を捨てる。

③「志を立てよ」…志を立てて行動を起こす。

④「学を勉めよ」…学問に励む。

⑤「交友を択ぶ」…磨き合う友を選ぶ。

この心構えを読ませて頂き、本にも書いてありましたが、社会人として自分を律する強い心を持って、日々業務に取り組みたいと思いました。

また、これを読んで生前、父がよく語っていた「武士道」も思い出し、武士道について書いてある記事を要約してみました。

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武士道の本質は、美である。日本人の価値観は、美意識にあると。
武士にとって生き甲斐とは、死に甲斐でもあるのである。美しく死ぬために、生きる。

ここでいう、美しいという意味は、武士道の根底にはある潔さにあると。

潔さは、潔白、純潔ににも通じる。それが美学である。

結果ではなく心の有り様が重要で、 何が自分をそうさせるのかが重要で、それは、愛だったり、正義であったり、理想たったりするのだと思う。

武士は、常に真剣に生きていた。

なりふりかまわず己の信じる道を追い求めていくのが武士である。
純粋に生きることでもある。

美しく死ぬということは、美しく生きると言うことを意味する。

生き甲斐というのは、裏がして言えば、死に甲斐でもある。

この一事において死んでも良いと思う事は、だからこそ生きているのだとも言えるのである。
いつでも死ねるという覚悟は、だから、今を、精一杯、生きようと言う覚悟に転化する。
いつかは死ぬのだという確信は、この一瞬一瞬に自分の総てを燃焼し、自分の誠を尽くして生きていこうとする執念に昇華する。


何によって生きるかは、何によって死ぬかと同義である。

志によって生きる者は、志によって死にもするのである。
生きる為によって立つものは、死すべき原因ともなるのである。
死を覚悟したからと言って死を目的化するわけではない。生きんが為に死を覚悟するのである。
そこに美意識が働くのである。
美しく咲いて、美しく散っていく。

それは死を必然として受け容れた時、生を死に至る道として受け止める事によってはじめて成就する。
生きることを死に至る過程としていかに美しく生きるかを突き詰めたところに、武士道はある。

一瞬一瞬に全身全霊をかけて断じる。未練を断ち切る。それこそが決断なのである。生きるとは、気魄である。

邪気を払い無心に決断する。それによって平常心を保つ。それが武士の心得である。

日本人の言う綺麗とは、飾り気のなく、清潔、純粋に生きることである。

欲を断ち、生への執着を立ち、一心に義を思い。公に死す。そこに美学がある。
人に恥じる事のない事のない大道を歩む。堂々たる人生を生きる。それが武士の本懐である。

武道だけに精通することが武士道ではない。武士は嗜みを重んじる。武士の嗜(たしな)みは美学である。故に、形や体面に重んじる。
武士の嗜みは、清く正しく美しくあるための素養にある。
故に、武士らしい武士は、詩を読み、能を楽しみ、書や水墨画に堪能な者が多い。

又、死に臨んでは、志を辞世の句に残すのである。
言葉は、簡潔明瞭にして、無駄口をきかない。
常に、身につける物、下着を清潔にする。どこで、死んでも辱めを受けないように心懸ける。それこそが武士の嗜みである。
服装は華美に走らず。清潔を保つ。きれいが美しいのである。いつ死んでも恥をかかないようにである。又、服装を気にして、後れをとらないようにである。常に、いつも、その時に中るのである。それが嗜みである。

常に命を投げ出す覚悟こそ武士の本懐である。それは決してしに急ぐことではなく。平素の覚悟である。
その時に中りて迷うことなし。平常心を以て生と死に臨む。一期一会。一瞬に全てをかける。死中に活を見出すのであって死を望むわけではない。生きることを考えて窮地に陥らないことである。身を捨ててこそ生きる瀬もある。それが、もののふの覚悟である。

武士はいつでも笑って死ねる度量が求められる。
その為には、平素は、単純明快にして、心に悔いを残す物事を置かないようにする。
誰が見ても解りやすい生き方をする。
何事も素直に受け止める。常に恬淡とし、いざという時に臨む心がけでいる。常住戦場なのである。
常日頃から迷わないように修行する。大切なのは生きる姿勢である。平素からの覚悟である。後れをとらないことである。

嘘を決してつかない侍の話がある。なぜ、その侍が、嘘をつかないのかというと、武士というものは、一世一代の大嘘をつかなければならない状況に追いやられる時があるやもしれない。その時、誰も自分の嘘を信じてもらえなければ何の役にも立てない。その時のために、ひたすら嘘をつかないでいるというのがその武士の言い分である。それが武士の平素の心得である。

重要なのは、決断である。速やかに決断をして行動に移る。それが武士の嗜みである。
最悪の誤判断は、不決断である。どんな状況においても決断力があれば自分を保つことができる。自分の意志で大事を決断できなくなった時、人は自分を見失うのである。自分を最後の最後まで保つ力は、決断力である。


決断力は修練でしか養えない。

決断できない時、私は、自らを叱責する。ただ一言未練と。何を迷うと。

死に怯えて気後れし、見苦しい生き方をしないよう。自分の信念を曲げてまでも生きようとはしない。
それならば潔く、自分の人生に決着をつける。
人に言い訳をしながら生きるような恥さらしな生き方はしないよう、常に、己の襟を正して生きていくのである。
自分に決着をつけると言っても逃げたり、自殺したりすることを意味するのではない。
逃げ出そうとする、妥協しようとする自分と戦うことを意味するのである。


自分とって何が正しく、何が間違っているのか。
常日頃からいざという時の心構えを定めておく。

友が間違った道へ進もうとしたら私は、友情をかけて友を諫める。諫めれば友情は終わるかもしれないが、諫められなければ、最初から友とは言えない。

信義を裏切り、不義に加担し、義理に背いて、人としての道に逸れ、礼節を棄てなければ生きられない様な状況に陥った時、ただ、従容として死を受け容れるのである。それは己の誇りが保てなくなるからである。


日本人にとって職場は道場である。修行の場である。自己実現の場である。
道場とは、神宿る場所である。
神とは、自己を超越したところにあって、自分を自分たらしめる存在である。

自分にとって最も純粋で聖なる存在である。自分の良心である。己を写す鏡である。

故に、日本人は、仕事場に神棚を奉り、仕事に取りかかる際は、身を浄め、常に清潔を保つように心懸ける。 仕事場に入る時、神に一礼をし、祈りを捧げてから仕事にかかったのである。仕事が終われば仕事場を掃き清める。掃除に始まり、掃除に終わる。仕事場においては、不浄不潔なるものを嫌う。
故に、日本人にとって労働は、単に糧を得るための生業ではなく。仕事は、神聖なものなのである。仕事は、神への捧げ物なのである。神に対する感謝なのである。仕事は、自分が、生きることの証でもある。
仕事に手抜きをしないのは、仕事こそ自己実現の手段だからである。仕事に対して不誠実なのは、自分に対して不誠実なのと同じなのである。
仕事は、己の真を尽くす行いなのである。
だから、収穫を神に捧げ、祭るのである。

不誠実な仕事に、自分が納得しないから仕事を極めるのである。ただ、金のためだけに働いているわけではない。それが日本人である。不誠実な仕事は、自らを辱める事でしかない。

日本人は、仕事に対して純真であり、純粋であり、一途であり、専心なのである。仕事こそ至上の行為である。

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武士魂に心を奮い立たされます。

高い志しを持ち、誠実に、誠実に生きたいと思います。