有限会社 エステート・リード

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伝え方次第

日時: 2018年06月07日

A.Y

私は、話をするとき(報告・連絡等)相手の方に「結果どうしたの?」とか、「それから?」と聞かせて

しまうことがよくあります。

当社に入社させて頂き上司や先輩方にご指導頂く中で、自分の伝え方が悪いから相手の方に聞かせて

しまうということに気づきました。


気づいたことで、このままではいけないと焦りを感じるようになり相手の方に聞かせてしまうことがない様に、正確に伝えられる人になりたいと伝え方についての本を読んで勉強中です!

「伝え方が9割」という本に伝えるためのテクニックがいくつか書かれてました。
その中で「自分の頭の中をそのままコトバにしない」とありました。
自分を振り返った時に、何が目的で話をしたいのか、まず結果はどうなのか?と自分でも自分の頭の中が分からず整理していない状態で、とにかく伝えようとして、頭に浮かんだ言葉を発してしまい、結果、自己満足で終わってしまって相手の方に伝わらず聞かせてしまうのだと思いました。

今まで私は自己満足で話をしていることさえにも気づいておらず、理解してもらえないことを相手の方に責任転嫁してしまっていたと、改めてとても傲慢だったと反省しています。
大切な事はいつも相手の方の立場に立って、何を求めているか考えてから発信するとあり、自己満足にならないように常に相手の立場に立って考えて発信するように気をつけなければと思います。

本だけではなく、体験をして学ばなければと思い、伝え方の講習を受講し、早く正確に伝えられるようになるために頑張ります。

今まで興味を持って学ぼうとしてこれなかったことを反省し、今からでも自分の熱意、やる気次第で変わっていけると自分を信じてこれからも学ぶ努力をし続けて頑張ります。


心構え

日時: 2016年01月19日

毎床 優子

朝礼で、毎日活用させて頂いている『職場の教養』での教えで、今日の教えを改めて考えてみました。

内容は、西郷隆盛に「その才器、識見、到底自分が及ぶものではない」と言わしめた人物、橋本佐内という幕末の志士が、著書『啓発録』の中で、己の心身を磨き高めるための5つの心構えが書かれていました。

①「稚心を去れ」…甘えた心を捨てる。

②「気を振え」… 怠け心を捨てる。

③「志を立てよ」…志を立てて行動を起こす。

④「学を勉めよ」…学問に励む。

⑤「交友を択ぶ」…磨き合う友を選ぶ。

この心構えを読ませて頂き、本にも書いてありましたが、社会人として自分を律する強い心を持って、日々業務に取り組みたいと思いました。

また、これを読んで生前、父がよく語っていた「武士道」も思い出し、武士道について書いてある記事を要約してみました。

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武士道の本質は、美である。日本人の価値観は、美意識にあると。
武士にとって生き甲斐とは、死に甲斐でもあるのである。美しく死ぬために、生きる。

ここでいう、美しいという意味は、武士道の根底にはある潔さにあると。

潔さは、潔白、純潔ににも通じる。それが美学である。

結果ではなく心の有り様が重要で、 何が自分をそうさせるのかが重要で、それは、愛だったり、正義であったり、理想たったりするのだと思う。

武士は、常に真剣に生きていた。

なりふりかまわず己の信じる道を追い求めていくのが武士である。
純粋に生きることでもある。

美しく死ぬということは、美しく生きると言うことを意味する。

生き甲斐というのは、裏がして言えば、死に甲斐でもある。

この一事において死んでも良いと思う事は、だからこそ生きているのだとも言えるのである。
いつでも死ねるという覚悟は、だから、今を、精一杯、生きようと言う覚悟に転化する。
いつかは死ぬのだという確信は、この一瞬一瞬に自分の総てを燃焼し、自分の誠を尽くして生きていこうとする執念に昇華する。


何によって生きるかは、何によって死ぬかと同義である。

志によって生きる者は、志によって死にもするのである。
生きる為によって立つものは、死すべき原因ともなるのである。
死を覚悟したからと言って死を目的化するわけではない。生きんが為に死を覚悟するのである。
そこに美意識が働くのである。
美しく咲いて、美しく散っていく。

それは死を必然として受け容れた時、生を死に至る道として受け止める事によってはじめて成就する。
生きることを死に至る過程としていかに美しく生きるかを突き詰めたところに、武士道はある。

一瞬一瞬に全身全霊をかけて断じる。未練を断ち切る。それこそが決断なのである。生きるとは、気魄である。

邪気を払い無心に決断する。それによって平常心を保つ。それが武士の心得である。

日本人の言う綺麗とは、飾り気のなく、清潔、純粋に生きることである。

欲を断ち、生への執着を立ち、一心に義を思い。公に死す。そこに美学がある。
人に恥じる事のない事のない大道を歩む。堂々たる人生を生きる。それが武士の本懐である。

武道だけに精通することが武士道ではない。武士は嗜みを重んじる。武士の嗜(たしな)みは美学である。故に、形や体面に重んじる。
武士の嗜みは、清く正しく美しくあるための素養にある。
故に、武士らしい武士は、詩を読み、能を楽しみ、書や水墨画に堪能な者が多い。

又、死に臨んでは、志を辞世の句に残すのである。
言葉は、簡潔明瞭にして、無駄口をきかない。
常に、身につける物、下着を清潔にする。どこで、死んでも辱めを受けないように心懸ける。それこそが武士の嗜みである。
服装は華美に走らず。清潔を保つ。きれいが美しいのである。いつ死んでも恥をかかないようにである。又、服装を気にして、後れをとらないようにである。常に、いつも、その時に中るのである。それが嗜みである。

常に命を投げ出す覚悟こそ武士の本懐である。それは決してしに急ぐことではなく。平素の覚悟である。
その時に中りて迷うことなし。平常心を以て生と死に臨む。一期一会。一瞬に全てをかける。死中に活を見出すのであって死を望むわけではない。生きることを考えて窮地に陥らないことである。身を捨ててこそ生きる瀬もある。それが、もののふの覚悟である。

武士はいつでも笑って死ねる度量が求められる。
その為には、平素は、単純明快にして、心に悔いを残す物事を置かないようにする。
誰が見ても解りやすい生き方をする。
何事も素直に受け止める。常に恬淡とし、いざという時に臨む心がけでいる。常住戦場なのである。
常日頃から迷わないように修行する。大切なのは生きる姿勢である。平素からの覚悟である。後れをとらないことである。

嘘を決してつかない侍の話がある。なぜ、その侍が、嘘をつかないのかというと、武士というものは、一世一代の大嘘をつかなければならない状況に追いやられる時があるやもしれない。その時、誰も自分の嘘を信じてもらえなければ何の役にも立てない。その時のために、ひたすら嘘をつかないでいるというのがその武士の言い分である。それが武士の平素の心得である。

重要なのは、決断である。速やかに決断をして行動に移る。それが武士の嗜みである。
最悪の誤判断は、不決断である。どんな状況においても決断力があれば自分を保つことができる。自分の意志で大事を決断できなくなった時、人は自分を見失うのである。自分を最後の最後まで保つ力は、決断力である。


決断力は修練でしか養えない。

決断できない時、私は、自らを叱責する。ただ一言未練と。何を迷うと。

死に怯えて気後れし、見苦しい生き方をしないよう。自分の信念を曲げてまでも生きようとはしない。
それならば潔く、自分の人生に決着をつける。
人に言い訳をしながら生きるような恥さらしな生き方はしないよう、常に、己の襟を正して生きていくのである。
自分に決着をつけると言っても逃げたり、自殺したりすることを意味するのではない。
逃げ出そうとする、妥協しようとする自分と戦うことを意味するのである。


自分とって何が正しく、何が間違っているのか。
常日頃からいざという時の心構えを定めておく。

友が間違った道へ進もうとしたら私は、友情をかけて友を諫める。諫めれば友情は終わるかもしれないが、諫められなければ、最初から友とは言えない。

信義を裏切り、不義に加担し、義理に背いて、人としての道に逸れ、礼節を棄てなければ生きられない様な状況に陥った時、ただ、従容として死を受け容れるのである。それは己の誇りが保てなくなるからである。


日本人にとって職場は道場である。修行の場である。自己実現の場である。
道場とは、神宿る場所である。
神とは、自己を超越したところにあって、自分を自分たらしめる存在である。

自分にとって最も純粋で聖なる存在である。自分の良心である。己を写す鏡である。

故に、日本人は、仕事場に神棚を奉り、仕事に取りかかる際は、身を浄め、常に清潔を保つように心懸ける。 仕事場に入る時、神に一礼をし、祈りを捧げてから仕事にかかったのである。仕事が終われば仕事場を掃き清める。掃除に始まり、掃除に終わる。仕事場においては、不浄不潔なるものを嫌う。
故に、日本人にとって労働は、単に糧を得るための生業ではなく。仕事は、神聖なものなのである。仕事は、神への捧げ物なのである。神に対する感謝なのである。仕事は、自分が、生きることの証でもある。
仕事に手抜きをしないのは、仕事こそ自己実現の手段だからである。仕事に対して不誠実なのは、自分に対して不誠実なのと同じなのである。
仕事は、己の真を尽くす行いなのである。
だから、収穫を神に捧げ、祭るのである。

不誠実な仕事に、自分が納得しないから仕事を極めるのである。ただ、金のためだけに働いているわけではない。それが日本人である。不誠実な仕事は、自らを辱める事でしかない。

日本人は、仕事に対して純真であり、純粋であり、一途であり、専心なのである。仕事こそ至上の行為である。

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武士魂に心を奮い立たされます。

高い志しを持ち、誠実に、誠実に生きたいと思います。



『2016年目標を実現する』

日時: 2016年01月15日

今岡 憲成

2016年が始まり私は今年1年の目標を立てました。

「リーダーとしての自覚を持ち、会社を引っ張いく」「学んだ事を発揮する為に、すぐに実行する」
目標を決めたきっかけは、昨年までは自分の仕事ばかりに集中し、会社全体を見渡せられなかった為、援助を頂いていたばかりだったので、今年こそはリーダーとして自覚を持ち会社を引っ張いく為の広い視野を持つことが大切だからと思ったからです。

もう1つの目標は、今年1年間研修へ行かせて頂けるチャンスを活かし、自分のものにする為に、アウトプットを実践し実行するように目標を決めました。
これまでも毎年、目標を立てますが、時間と共に流され、年の瀬に振り返れば未達で終わる事が多かったです。
それでは、目標の意味がないなと反省しました。
今年こそはそういったことがないようにするため、目標の立て方や実行するのに何をしなければならないか、どう計画するべきかを考えてみました。
目標を達成のために必要な誓いや行動を起こす為に心の持ち方を今までのやり方から変えることが大切だと思いました。
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『心の持ち方』ジェリー・ミンチントンより
「目標を持ち、計画を立てて実行する。」

人生が思い通りにいかずに不満を感じたり、目標がなかなか実現せずに落胆したりする経験はないでしょうか。
そういう経験が多いようなら、それは具体的な目標を設定したことがないからかもしれません。

人は誰でも「幸せになりたい」「いい仕事に就きたい」「楽しい人生を送りたい」「いい人間関係を築きたい」「成功をしたい」といった目標は持っている。

問題は、それらの目標があまりにも漠然としすぎている事と、それを達成するための計画を持っていない事だ。

具体的な目標を選ぶことは、意外と難しい作業である。
だから、具体的な目標を持っていない事で目標を達成する事が難しい人が大変多いのです。
最もむずかしいことは、自分が本当に手に入れたいものをまずは決めなければなりません。
次に、確実に達成できる簡単な目標を選ぶ。

さらに、その目標を一連の小さい目標に細分化する。それらを段階ごとに達成をして行く。
この段階を追えば、現実的な目標であれば確実に達成が可能となります。
こうすることによって人生に目的意識を持つことが出来ます。

大変多くの人がさまよいながら人生を送っているのは、行き先をはっきりと決めていないからだ。

具体的な目標を設定しないかぎり、自分が手に入れたいものを得られずに終わってしまうことになります。
自分から積極的に働きかけなければ、本当にほしいものが手に入る可能性は極めて低いのです。
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この本を読み、今までの私は目標が達成できなかったのは、目標が具体的でないからだと思いました。
明確な目標を立てずに、ただ「何となくこれをやりたいな……」「こうなったらいいな……」と願望するだけで実際は何も変われませんでした。

何もしていなかったので将来に対する不安を感じたり「何で思った通りにならないんだ」という現状に対する自己嫌悪に陥る事が多々ありました。
このままでは駄目だと分かっていても変えられない自分が今まであったからです。
目標を実現するためにどうすればよいかを考えてみました。
今日できることを先延ばしをしない。
自分で決めた約束を破らない。
目の前の目標を明確化する。
目標を細分化する。(小さな目標設定)
これらの事ができなければ目標の達成ができません。

目標を明確に定めると、達成のために「今日何をすべきなのか」「今何をすべきなのか」ということがはっきりしてきます。

今年1年の目標を達成するために、具体化する事とすぐに実践する事をいつも意識を持ちながら着実にすすまなければならないと思いました。
最初は簡単な目標でも、達成を繰り返していくと自己効力感というものが高まってきますので、確実に一歩づつ進んでいきます。
目標とは、頑張りを強制されるものではなく、実現する為に自分で決めて自分が成長できる将来に向かうための「地図」や「道しるべ」「時刻表」のようなものなのだとおまいました。
今年決めた目標に向かって、実践し必達できるように計画をしていきます。


八風

日時: 2016年01月12日

遠藤 乃倫子

新年明けましておめでとうございます。
旧年中はたくさんの方にお世話になり、心より感謝申し上げます。

2016年が始まりました。
年間通して、いつも思うことは、今年も頑張ろうです。
ですが、人生山あり、谷ありというように、毎日の中にも、毎月の中にも年間通しても、良い時もあれば、自分にとって少ししんどいなと思う時もあります。
これが、俗にいうバイオリズムかと思う時もありますが、でも、それで片付けてはいけない。
全ては必然であり、起こるべくして起こっています。
毎日、毎月、毎年新しい毎日がやってきます。

自分がどう生きたいか、どうしていきたいかという志が揺れたり、ふっと消えた時、見えなかった時が、一番自分にとっての試練が起きてくれるのだと思います。

あえて、試練が起きてくれるという言い方をしますが、それは、人生は必然で、どんなに頑張っていてもうまくいかない時もあり、例えば幼い生まれたばかりの子が親の勝手で死に至らしめられる程の事件をニュースでみると、人生は自分で決められないのかと悲しくなります。

だからこそ、今、子を持つ親としても、会社で管理職を担う年代となり、家庭でも社会でも、ここまで成長させて頂けて、頑張れてる事がありがたく、この先をどう生きていくのかを真剣に考え、懸命に1日1日を過ごさせて頂く必要があるのだと思います。

必然でも自分でどうにも出来ない赤ちゃんではないので、起きた事、起きている事に対して、自分の意志をしっかりと持ち立ち向かっていく強さを持たなければいけないと思いました。
グリム童話で『北風と太陽』は有名です。
風と太陽が、旅人のコートを脱がせる為に競うのですが、どんなに冷たい風を吹かせても旅人は頑なにコートを閉ざし、太陽の温かさがコートを脱がせます。
今までは、北風は冷たく、太陽の温かさが勝ちだと思っていましが、見方を変えれば北風も風の吹かし方次第で、また太陽と協力すればもっと違った脱がせ方が出来たのではないかと思います。
人生にはたくさんの風があることを知りました。
いい年になってきて知ってるつもりで、知らないことだらけを知りました。

仏教に八つの風のお話があります。

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『八つの風』

「ええい、ままよ、あしたはあしたの風が吹くさ」とやけっぱちでいう人がいる。
では、明日はどんな風が吹くかと聞いてもわからないからなさけない。

「上州名物かずかずあれど、かかあ天下に空(から)っ風」というように、突風や北風は人の身も心も寒くする。
だが、南風やそよ風と聞くと、心がほのぼのとしてくる。

そんなにも、風は人の心を動揺させるのである。

仏教では揺れ動く人の心を、特に「欲望」という煩悩の心を、「八風(はっぷう)」といって、八種類の風にたとえている。

その一は「利(り)」という風である。
世の中で、やることなすことすべてうまく行くときがある。
息子は国立大学へ一度で合格し、娘は有名高校に入り、妻も祖父母も健康だし、
自分の経営する会社は笑いが止まらないほど儲かっている。
覚えがある方もいらっしゃるだろう。
このときは、利益(りえき)という風が吹きまくっているのである。

そのニは「衰(すい)」という風である。
このときは、誰もがしゅんとなるときだ。
どんなに頑張っても、なにをやってもうまく行かない。
会社の売り上げは悪いし、おまけに息子が怪我をする、おばあちゃんは入院する。
これも思いあたる人がいるだろう。
このときは衰の風が吹いているから仕方がない。

その三は「毀(き)」という風である。
他人から、かげで非難・攻撃されるときである。
どうしようもないから、こういうときは放っておくしかてがない。

その四は「誉(よ)」という風である。
ほまれあること、かげでほめてくれることだから、ありがたく喜んでいればよろしい。

その五は「称(しょう)」という風である。
これは、目の前でほめられることだから、お世辞が入っているかもしれない。
気をつけるべし。

その六は「譏(き)」という風である。
譏は、そしることである。
それも、面と向かってそしってくれる。
聞けば腹は立つがよく考えると心底からいってくれているので、とてもありが
たい人である。

その七は「苦」という風である。
すなわち逆境のことである。
こんなときは、決して悲観してはならない。
希望を持つことである。

その八は「楽」という風である。
すなわち順境のことである。
このときは、有頂天になって自分を過信したり、人のことを馬鹿にしたりしてはならない。

これらの「八風」は、人の心を強く揺り動かす。

しかし、「八風吹けども、動ぜず天辺の月」というのがある。

「この地球上で、どんなに大風が吹きまくっても夜空を照らす月はちっとも動じない」
という意味だが、この月のように動じない哲学と信念を持ってもらいたいものである。

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自然界の風がいつ吹くか分からないように、八風もいつ吹いてくるか分かりません。
自分から風を起こすことも多々あります。
北風と太陽の風のように、吹かせ方を変えれば、また太陽と協力すれば何かが変わるように、自分が起こす風も起こし方次第で、心地のよい、相手にとっても自分にとっても良い風を吹かすことが出来るのだと思います。

春の風はとても気持ちが良い。
暑い夏に吹く風は、暑さを和らげてくれます。
秋の風も涼やかで心地がいい。
冬の風は、曇り雲や落ち葉を飛ばしてくれます。

物事は考え方、見方を変えればいくらでも変わっていきます。

セレンディピティという言葉があります。
『運命の扉を開く奇跡のような偶然の出会いをキャッチする能力』という意味で使われることが多いようなのですが、もとはペルシャのおとぎ話で、旅の途中で遭遇する困難を三人の王子たちが不思議な偶然によって乗り越えていくという「セレンディップの3人の王子』というお話からきているそうです。

要は日常の中で自分を良い方向に導く出来事に気づく能力という事です。
どんな事が起きていても、それは自分を良い方向に導く為の出来事で、それに気づき、自ら良い風を吹かしていくことが大事なんだと思いました。

「八風吹けども、動ぜず天辺の月」
自分の志をしっかりと持ち、信念に従って今年1年、良い風を受け、吹かせるよう心耳を澄まし2016年、社の発展と皆様の幸せ、家族の幸せ、自分を磨く事に全力で向かいたいと思います。

本年もどうぞ宜しくお願い致します。


生き生きとした人生を送るために

日時: 2015年12月24日

平 美穂

師走に入り、世間では年末恒例の「今年を表す漢字」や「今年を代表する出来事」などのニュースで賑わっています。


私もこの一年を振り返ってみると、職場で毎朝行われる朝礼、毎月行われる勉強会や、弊社のホームページでアップしていただいている社員のブログなどを通じて、沢山の素晴らしい言葉や文章に出合わせていただいたなと思いました。

自分なりに感じることだけでなく、皆さんの意見などを聞くことによって、物事は自分の見方だけでなく、人によって様々な見方や捉え方があるということを知り、自分にはない感性や考えを学ばせていただきました。


鈴木秀子氏 (国際コミュニオン学会名誉会長)の書かれた書籍に人の見方は様々で、それを知った上で自分の主張することを伝える、というものがあったことを思い出し

もう一度読み返してみました。


それは鈴木氏が芥川龍之介の短編小説「沼地」を読まれて感銘を受けられたことが書かれたもので「私たちが明るくいきいきとした人生を送ろうと思ったら、先入観なしに相手を受け入れ、自分が正しいと思ったことをはっきり伝える勇気と寛容さが必要です。」という言葉がありました。


最初にこの言葉を見たときは、自分の思ったことをはっきりと伝えるために、相手を受け入れるというのは、相反するように感じたのですが、読みすすめると、相手を受け入れることと、自分の意見を主張することは別のことで相手を尊重することが大事なのだと思ったからです。


その小説の内容はある無名の人の作品で「沼地」と題する絵を巡り、主人公の「私」と美術記者の様子を描写したもので、この絵に魅せられている「私」の前に、新聞の美術記者が現れ、つまらないものに感心すると言って「私」を見下すの場面があります。

「私」はこの画は傑作だと主張します。すると新聞記者は「私」の見る目のなさをあざけるように大声で笑いました。

それでも「私」はその部屋の片隅に置かれた誰も足をとめることのないようなひっそりとした絵の中に情熱と作者の生き様を感じ取り、「傑作です」と、「私」は記者の顔をまともに見つめながら、昂然として繰り返したのです。”


鈴木氏はこの短編を読んだ感想について次のように書かれています。


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この短編は、文壇の中で、立場を異にするゆえに、理解しようとしない人々に対しての、芥川龍之介の「我が道をゆく」という宣言とも読むことができます。

しかし、そうした背景を抜きにして、この作品にじかにぶつかる時、この『沼地』の中に象徴されていることが、私たちの毎日の生活とも密に繋がっているのを感じるのです。

私たちは、画や本や風景や人や、その他あらゆる芸術作品に、毎日対面しています。

例えば、一冊の本を取り上げる時も、多くの場面、人から題名とか内容について聞き、先に、ある程度の興味を持っています。

よいとか悪いとかの判断を往々にして、他の人の権威ある意見に頼りがちです。

自分が感じ取るものだけを頼りにすることは、不安なのです。

ましてや情報の溢れている現在では、いろいろなことにまず予備知識を持ち、それに照応しながら、価値の判断を下そうとします。

社会生活をしていく上で、これはもちろん必要なことです。

しかし、何か物事にぶつかった時、私たちは頭や心を空っぽにして、そのもののこちらへ語り掛けてくる無言の言葉に耳を傾けることが大切ではないでしょうか。

そして、相手のものから受ける感じを心で味わってみる必要がないでしょうか。

他人や、偉い人が何といってもいいでしょう。私に相手の人なり物は、こう語り掛けている。

そして私はそれをこう理解するのだという自信が尊いのだと思います。

「心の瑞々しさ」はそうした無心の状態からものごとの中へ飛び込んでみることによって、保ち育てられるのではないでしょうか。

「そのものが語り掛ける無言の言葉に耳を傾ける」ことが大事です。

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これを読んで、私は普段、職場でお客様や同僚、部下に真摯に向き合い、周りや相手にどう思き合っていくか、私はこの目的に向かってこのような考えを持っていますということを最優先にして伝えていかないといけないのに、相手がどう思うかとか、自分を守る事、逃げることをしてしまっていて、飲み込んでしまった言葉があると思いました。

それは人だけでなくものごと全て同じでつながっているのだと思いました。

さらに文章は次のように続きます。

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『沼地』の中で「私」が、あくまで自分が感じ取ったことに忠実であり、世評がどでうであれ、自分の確信をはっきり言い切っている態度には見事なものがあります。

「私」は世評を代表する美術記者の自信溢れる意見に少しも動かされてはいません。

「私」は狂人の描いた画を深く理解し、無名の芸術家の苦悩と、人間としての叫びを感じ取っているからです。

一人の人間を許容し、大きな言葉で言えば、運命の共存を感じ取っている時、人は世間の評価には屈しません。

一人の人間の尊さが身にしみているからです。

「私」はこの世で報われることのなかった画家をありありと感じているのです。

そして、生命まで犠牲にして描いた一枚の小さな画から、彼の魂に触れているのです。

だからこそ、世間そのものである新聞記者のこの画を無視した不遜な態度に、正面から「傑作です」と記者の顔をまともに見つめて、昂然と繰り返すのです。

『沼地』を読むと、生きてゆくことは、何と勇気のいることかと考えさせられます。

他の人の立場をあるがままに受け入れることに、まず大きな勇気と寛い心が必要です。

そして多くの人のそれぞれの立場に理解を持ち、先入観なしにその立場を認めることも決して狭心の心ではできません。

ましてや世間の風当たりに逆らって自分が正しいと思うことを、独善的でなく、穏やかに述べるのは、平静な心と強い勇気が要求されます。

苦しい一生を送りながら、聖者と讃えられる人々の記録を見ると、何と多くの祈りが「勇気と寛大な心を与えてください」という叫びに満ちていることでしょうか。

世界中のどの人にとっても、いきいきと生き抜くには、真の勇気と寛い心が土台として必要なのです。


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私はこの文章を読んで日々の生活の中で、自分の思いや考えを堂々と主張できるくらい、真剣に人や物事に関わっているかと思うと、いかに多くのことを先入観や既成の価値観で決めつけてしまっているかということに気づき、一つのものの見方しかできず、判断を感情に任せて下してしまっていたと反省しました。


職場でも常に「相手の立場にたって行動しましょう」と部下に指導している私が先に書いたように、自分の感情や思い込みで言いにくい言葉を飲み込んでしまうことがあると、周りに伝わる事はないと思いました。

まず、自分の主張したいことをしっかりとした根拠をもって、相手に真剣に伝えるために普段から自分の仕事や周りの方に真剣に向き合って、勇気と平静な心を鍛えていき相手の立場に理解をもって、先入観を持たずにそれぞれの立場を受け止める謙虚さを持ちたいと思います。


弊社では常日頃から、社員が学ばせて頂ける環境を整えてくださっており、それぞれのやる気次第で職歴、年齢に関係なく人間力を向上しようと社員全員で切磋琢磨しています。

人間力を向上させるということは豊かで充実した人生を送れる、と職場でも教えていただいています。

これからも皆で明るく生き生きとした人生を送れるように努力していきます。